「三代以上有法,三代以下無法。何以言之?」

これは格調高い黄宗羲「明夷待訪録」の一節ですが、この意気昂然を我々が現代に見いだすとすればE・サイードでしょうか。蘇軾の思治論に天下常患、無財、無兵、無吏とあるが、当時北宋の満朝文武、人材済済なるを、自選舉之格嚴。而吏拘於法不志於功名。つまり、無一人与百姓同悲と断じた姿を彷彿とします。こういった不法之法をヘーゲルの法を読みながら考えさせられることがありました。
彼は続けて言います、「三代之法,藏天下於天下者也」
しかし法的に純粋な力とはそもそも現実の写し身でありながら、それはマイネッケの指摘の通り自然法則型の思惟とは現実に適用されるやいなや死文と成らざるを得ない。ユートピアニズムリアリズム闘争はこうして何度も論じられてきました。しかし、リアリズムは如何なる国家理論をも支持しないというのも事実であり、ユートピアニズム同様リアリズムも現実という事象の写し身たることは出来ないのです。それは形式にしか宿らないものであり、対立を生み出しているこの自然主義実証主義はそもそも哲学史上からみれば同根でした。
法の記述とはそもそも自然学の記述であり、世界の事象を担保しなくてはならない。そして「則ち人間理性である」というモンテスキューを経て、西洋近代の根拠がその信念の下に組み立てられます。それは国家が理念であるからであり、人間がそれによって理念的存在だからである。
何が法を支えてきたかというと、ヘーゲルからは自然と一体になっていた宗教起源的なギリシア精神であるという答えが返ってきます。
それは大きくは戦争の歴史であり、人間の意志が法という歴史の不合理性に対する戦いの経験に慣れた結果です。東洋医学にある猛薬晩求急病の謂いです。

法の自動的調律はアメリカ的肥大となりイスラム圏やその他の法と衝突するのは何故か。それはコルテスやピサロと同じ羨望よりなる恐れです。つまり今日も同様に法に於ける人間規定が常に人間存在を外れていくのは常に法への不信からというよりも自らの人間への不信からといえましょう。
人間は法を疑えません。それはただ絶対知の或いは記号たる言語の「置き換え」「再編」「再生」として認識されるものであるがゆえに宗教問題なのです。政治を力学の延長上に置き、人間の行動原理を一元的な理論で計ろうとする野心的な思考とは近代にあってはその啓蒙の誘惑にありました。
銃器をもって非欧の没落を論じ、歴史進化論を滑り込ませるJ・ダイヤモンド的な図式であったり、動物本能という概念を人間行動のアレゴリーに平行移動する動物的図式、或いは数学的に自然を主人として秩序化するという図式、或いは精神とは脳による物質的変化であり、それらはすべて脳の臓器としての自律器官たる所為であるという脳科学よりなる機械的図式を、これら神学的図式をもって人間が抗えない法として定着させようとする意志です。その神々の深き欲望故に我々をこれほどまでに魅了して已まない。法という神々の戦いに於ける経験が中国では古来より兵法と呼ばれた所以です。